👨ポスト人間中心時代の理性によるデザイン🤖

久保田晃弘『ポスト人間中心時代の理性によるデザイン』のメモ

シミュラクラとは何か

  •     「オリジナルなきコピー」by ボードリヤール
    •  ←「本物そっくりのまがいもの」by ディック
      •  ←「3つの点が集まった図形を人の顔と見るようにプログラムされている人間の脳の働き」←心理学的用語

シミュラクラとしてのデザイン

ダン・ゲントナーとヤコブ・ニールセンにより1996年に発表された論文の「Anti-Mac interface」では,従来のマッキントッシュのGUIがアプリケーションの挙動やファイルシステムを「デスクトップ」というメタファーで隠蔽したことに対し,これからのインターフェースは,コンピューターの内部挙動や構造に直接根ざしていることが必要だと説いた。しかし現実は、アダム・ベイカーが「Post-mac interface」(2015)で「simulacra」と表現する発展を遂げる。すなわち,高度の処理とネットワーク,大量のメモリなどを駆使し「実在なきリアル」=「シミュラクラ」を生み出す方向へと進んだ。思考や行動をモデル化したシステムやアプリケーションにより,コンピューターはより私的(=パーソナル)なものになるのみならず,それに準じる人間は,(モデル化された)「人間」(に適合する)ように振る舞うシミュラクラになった。

シミュラクラとしてのデザインとは,人間の実際的な経験や心理に基づかない(=人間中心ではない)外的なアルゴリズムを導入し実行することで,シミュラクラを生成し,人間のありようさえ拡張してしまうようなデザインであると言える。人間の限界は自分のとる手続きや意味にストーリーを持たせてしまうことにあるが,アルゴリズムとしてのデザインはそういった認知的限界を超越する。(ref.アルファ碁同士の対局)

 


「ポスト人間中心デザイン」の特徴

A/B/C by 久保田晃弘 (ref. A/B by Danne & Raby)

Alternative
Questioning problem
Change premise
Design for consideration
Design as algorithm
In the service of other
Unverifiable function
For how the world must be
Change both us and the world
Universal fiction
Heterogeneous universe
The unknowable real
Narratives of preservation
Multiplication
Irony
Reflection
Axiomatic Design
Alien
Makes us change
Mathematics
Logics
Anonymous


ポスト人間中心社会と人間の役割

人間 – 選択と寛容性

  • 選択
    • アルゴリズムが生成する膨大な出力を、何らかの形で圧縮し故障や崩壊を防ぐために「すべきである」「しなければならない」超論理的な選択を行うこと(ref. 宗教や倫理)
  • 寛容性
    • 自らが理解できる範囲の人間中心の考え方を超え,「不可知(unknowable)」のものを認めていくこと(ref. 量子力学の多宇宙解釈)
デザイナー – 新しい理性
  • …近代的な「個人」の成立とともにある「中心」概念を捨て去り,人間を超えた理性を獲得する
  • 身体的な経験に根ざした「感情」→『 抽象的認識としての概念を操作する能力としての「理性」』

memo

アルゴリズムの生み出すシミュラクラの話を一旦経由すると,そもそもシミュラクルラの議論の対象である,社会の伝統や文化といったものも,SF的な想像力でもってよりいっそう見知らぬもの,脅威に組織的で不可解なエイリアンとして立ち現われる気がしておもしろい。文化とアルゴリズムは並置される。文化もまた無根拠で,実行されるとき社会に何らかの様式を敷いては人間に変容を促す。アルゴリズムによって「新しいシミュラクラを作る」ということを,もう一度人間社会に引きつけて言うと「新しい文化の制作」といえ,学んだことと重なる部分が大きい。

 

(アルゴリズムの具体的なイメージが示されてないから予想になるが)アルゴリズムがシミュラクラを生み出し,人間が提示されたモデルに合わせて変容して,そこで終わりではないだろう。フィードバックを受けモデルが再構築され,再び社会に投げかけられるプロセスを断続的に繰り返すと考えられる。不動かつ特権的なシステムへの幻想は情報技術によって解体され,システムと人間が双方向的にコミュニケーションをとるようになった。すると共創を旨とするサービスデザインの領分になり,アルゴリズムを制御し行使する人間が何者であるか,が問われる。彼の意志と選択がより一層重要な問題として示唆されるのはこのためだと推測される。

 

俗っぽい,一般的なデザインの話。そもそもあらゆるデザインの本質がシミュラクラにあるということを認め,根拠のない仮説を社会に投げかけることを受け入れられると助かるデザイナーは多い。デザイナーの人生をかけた機械学習が「えい!」っと絞り出したシミュラクラに,人間中心の根拠を求められても困るものだ。デザイナーもまたエイリアンであり,根拠のないアルゴリズムを内包して生きている。

 

社会的職能として「説明できる」デザイナーが必要なのはいうまでもない。しかし,デザイナーが生み出す成果物が人間にとって楽しかったり,ソーシャルデザイン的だったとて,その全部が全部人間中心性に基づいているとは限らないし,成果物のクオリティと,成果物を生み出すプロセスにわかりやすさ/高度な客観性/透明性を持たせることとは,本質的に無関係だ。生成された形態に対し人間中心の根拠を探しているとき,器用になりきれずたまに感じる摩耗感,政治的駆け引きをしている感は,否定できない。

 

だから,プラクティカルに一番正しいのは,それがどれほど根拠のないシミュラクラであったとしても,議論の場に出して,これが妥当である理由/妥当ではない理由を検証するアブダクティブなプロセスをデザインに組み込み,関係者を動員すること,ということになるのだろう。久保田先生のいう「選択」と「寛容性」も具体的な場面を想像すると,こんな感じだろうか。

 


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ref:

ポスト人間中心時代の理性によるデザイン久保田晃弘,2018年07月02日閲覧