思弁的世界とコミュニケーション

浅野紀与思弁的世界とコミュニケーション』のメモ

 

意味を超えた世界

詩とは何か

「詩は詩と、それに感動する一人の人とによって、初めて完成するものだ。詩自身はそれだけでは何ものでもない」
谷川俊太郎「世界へ!」

「善良な読者は考える。これはどういうことを喩えて言わんとしたのか、または象徴しようとしたのか「わからん、わからん」で頭を悩ます……そうした場合は、読者はその思考そのものの奇異さ、神秘を鑑賞すれば、それで完全な読み方である。少しでもそれに意味づけをしてはポエジイの読み方にならなくなる……その詩が何について言っているのかは考えなくてもよいのである。」
西脇順三郎「詩学」

詩:「自由に想像された思考の世界」 – 豊穣なことばの世界:「文字とイメージと音が断ち切られながらも絡み合う」
    ⇄ 日常: 充足理由律によって物事を捉える

 

日常を満たす詩的言語

インターネットにおけるコミュニケーションの詩性
…『ひたすら他者との接触を求め,曖昧で思わせぶりな態度で,アイロニーや矛盾だらけのことばを交わし合っている。』
  • 「意味」のつながりだけで成り立っているわけではない
  •  無謬の理解や解釈に帰結しない
  •  終わりのないコミュニケーション
  •  不条理ゆえ自由

 

接触への欲望,意味の潜在性

「うつろなシニフィアン」

果てなき「接触」への欲望 ( ref.「Ambient Intimacy」by Leisa Reichelt )
    →別種のことばがインターネット上に溢れる( 写真,絵文字,変形文字,アスキーアート )
    =「うつろなシニフィアン」:相手との親密さ,という前提がなければ,断片的で無意味にしか見えない言葉

 

交話的言語と詩的言語

3つのコミュニケーション機能とロマン・ヤコブソンの指摘

  1. 主情的(emotive):送り手の気持ちの直接的表現
  2. 動能的(conative):呼びかけや命令のように受け手に向けられる表現
  3. 指示的(referential):状況において話題となる誰かや何かについて語る表現
+「交話的(phatic)」- 伝達される意味内容ではなく「接触」を保つこと自体が目的となる表現(「もしもし」,相槌,咳払いetc)
言葉の「詩的(poetic)」機能の重要性

 

〈メッセージ〉そのものへの志向、そのことだけのためにメッセージに対して焦点をあわせることが「詩的」機能である。言語のさまざまの一般問題をぬきにしてこの機能を研究したとしても成果はあまり期待できないが、また逆に、言語を精密に吟味しようとすれば、その詩的機能の考察を欠かすことができない。……この機能は、記号の際立ちを高めることによって、記号と対象との基本的な分裂を深める。
R.ヤコブソン「言語学の問題としてのメタ言語」

 

記号と対象の分裂:詩における「新しい関係」

ポエジイはものそれ自身を発見するものでなく、ものの自然や現実の関係を破壊して、新しい予期しない関係を発見することである。……自然の法則によらないで、人間の脳髄の中で思考するのである。
西脇順三郎『詩学』

 

「新しい関係」:メタファー(隠喩)/メトニミー(換喩)etc in 言語学
…「うつろなシニフィアン」に見える交話的言語が詩的言語 に転じる可能性を秘める

 

思弁の力と詩作

詩作という営み:思弁による力の発露

 

思弁という救い

経験と思弁

芸術の、そしてあらゆる思弁の卓越した美質とは、われわれが《含んでいる》とは知らなかった行動や、行動の所産を、われわれから引き出すことである。われわれは自分について、さまざまな状況がわれわれから引き出すものしか知らない……
ポール・ヴァレリー「詩学」(1935)

 

「思弁すること。それは、積み重ねられた過去の経験に惑わされることなく、ひとつの賽子(dice)を投じようとするその瞬間に、実在としての世界をあるがままに受けいれ、未来のあらゆる可能性に思いを至らせることである。」

 

カンタン・メイヤスー

eg.賽子の目
  1. 経験としての「賽の一振り」:「1」から「6」。
    • 充足理由律に従う時間:有限の可能性の顕在化
  2. ⇄思弁による「賽の一振り」:「7」の出る可能性さえ否定できない
    •  「いま自分が握っている賽子と、投げられると同時にわたしの手を離れ、それ自体の運動に委ねられる賽子が、「同じもの」であり続けると証明することは不可能だと気づく。」
    • メイヤスーの考える時間:可能性外の新たな事象を自ら創造する
時間は、実在的なものと同様に、可能的なものをも創発させるのである。……時間は、賽子を振るが、それは賽子を粉々にするためであって、また可能的なもののすべての計算の彼方で、それらの面を増殖させるためなのである。
カンタン・メイヤスー「潜勢力と潜在性」

 

関係から解き放たれた世界

相関主義

  1.  人間が主体となって世界と関係を結ぶ時のみ,世界がわたしたちの前に現れるとすれば,わたしがこの世からいなくなった時,わたしがいた世界も消えて無くなる。
  2.  わたしが存在しなくなっても,世界は何事もなく存在し続ける。
    • 世界 :「物自体」by カント : 自分自身を含めたあらゆる存在と無関係な,世界

カント以降の「相関主義」

  • 人間は,思考と存在の「相関」にしかアクセスすることはできない
  • あらゆる関係から独立した「物自体」としての世界をあるがままに認識するのは不可能

 

相関主義との決別

私たちは言語と意識の外部性のなかに閉じ込められているからであり、私たちは〈つねにすでに〉そこにいるからであり、「世界 — 対象」を外から観察できるような視点をもっていないからだ。
カンタン・メイヤスー「有限性の後で」

 

思弁による世界の表現 :「人間のいない世界、現出に相関しない物や出来事で満ちた世界、世界への関係と相関しない世界」…詩的表現

 

経験としての思弁

人間的本性/動物的本性:理解したい/繋がっていたい
思弁もまた経験として自らの内に刻まれていく。「経験としての思弁」を,詩人は偶然を必然にするようなことばに変えて,届ける。
180701 | 2508 words

ref:

思弁的世界とコミュニケーション』浅野紀与, 2018年07月01日閲覧