Adobeに計画されたUXの赴くままに,グラフィックデザインやタイポグラフィの知識も特になく,inDesignを数年来使っている。そのうち短期的かつ集中的に,言葉で説明されうる部分だけでも,タイポグラフィについて理解したいと思いながら,タイポグラフィ本の高価さを盾に先延ばしし,tumblrやtwitterに流れてくる断片的な知識にたまに目を通している。「わたしはそれを知りたい」という気持ちをfeedでやんわりつなぎとめる,情報社会にありがちな怠惰なスタイルに落ち着いて久しい。
feedからスタートして軽率なネットサーフィンを数分し,和文フォントと欧文フォント,ツメ組みの基本等調べているうちに,タイポグラフィ沼の浅瀬に片足を踏み入れた。 ドイツ生まれの書体「DIN」「FUTURA」の魅力 や 歴史から紐解く「HELVETICA」と「GARAMOND」の魅力 グラフィックデザイナー・白井敬尚インタビューが興味深い。
曰く,タイポグラフィの歴史は活版印刷技術とともにはじまり,デザインのなかでもとりわけ長い歴史がある。伝統ある書体のひとつひとつには,言うまでもなく文化や時代が反映されているのだが,書体においては成立背景だけではなく「どのように使用されたか」という使用状況に関するコンテクストへの知識が重要であるという。例えば Futura はバウハウスで講師を務めた人物が手がけた書体であり,正円や直線を使用した近代的なフォントであるが,のちにルイ・ヴィトンやフォルクスワーゲンのアイデンティティに使用された経緯があり,現在では「上品」や「エレガント」のイメージが付与されている。誰かによって作られ,誰かの使用方法がフィードバックされることで,タイポグラフィは新たな解釈を獲得しより奥深いイメージを獲得する。成立から現在に至る変遷を理解した上で使うこと,あるいはデザインすることでタイポグラフィの意味は深化し時に更新される。
消費者としての我々は,タイポグラフィを通じていともたやすく印象をコントロールされる(例えば フォントを変えただけでスープの美味しさがかわる のだという)一方で,素人がいざそれを使おうとすると「これが噂のゲシュタルト崩壊か…」というお手本のようなゲシュタルト崩壊を起こす。「上品って何だっけ」ってなるし,シニフィエに翻弄されたおし,ディテールの差異が識別できなくなる。かといって「スライドのタイトルはXptの●●フォントにしておきましょう」的なおきまりのルールに従うだけの日々は,なんか嫌だ。
フォントを使う上で「歴史的な成立背景/使用背景に関する知識」がある程度有効である,という事実は愉快だ。言葉とものの基本的な接続が明示的に説明されるジャンルということで,学習できる可能性が高い。それに学習過程が楽しい予感がする。この数年間,コーヒー豆の購入先をほとんど weekenders に一本化し,コーヒーの味を少し理解できるようになった経験からそう思う。インターネット上でできる範囲で,いくつかのフォントの成立/使用背景を知りフォントを見,理解する,という試行を繰り返してみてわかったのだが,フォントを理解する工程はコーヒーのそれにすごく近い,という感覚がある。
コーヒーの場合,これは「アプリコット味のコーヒーだ」と言われてそれを飲み,確かにこれは「アプリコット」的である,ということを確認する。合わせてコーヒーや豆の色も見て記憶に留める。それを繰り返す。そのうち,そのコーヒーを他のあらゆるコーヒーから「アプリコット」的なコーヒーとして識別しすくい上げるようになる。コーヒーを評する言葉が「アプリコット」「ストロベリー」「シナモン」…と増えるにつれて,1つ1つの特徴をより一層楽しむことができるようになり,また,言葉で説明されなくても「これはシトラス的な味のコーヒーである」と自分で解釈できるようになる。言語による認識や自我,社会性の獲得といった幼少期のプリミティブな体験を,大人になってから追体験するような心持ちである。味や色や香りなど感覚に没入する自分と,感覚を獲得する過程を言葉を使って観察する一歩引いた自分の両方が重なり合って奇妙で楽しい気持ちがする。
デザインや芸術の世界で,すべての事象を言語や分析で細分化するスタンスはまったく理解ではないけれど,言語を通じて新しい感覚器官を獲得するのはとてもいい。言語とはそのためにあるのだ!という至極当たり前の気づきを得る。そういうわけで,フォント舌の獲得を目指したい。
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