モード💄の建築 ⛪️

様式。様式に関して。よくわからない。

ただ,今も昔も,ファッション,モード,作法,手続き,..そういったものに心惹かれている。合理性とは関係のない何か。せっかく建築学をドロップアウトしたのに,考えていたのは結局ずっと同じことだ。

ミーハーな気持ちでいうと,マルタンマルジェラみたいな建築がいい。本音を言うと自分で作りたい。大好きだ。ただ町家を白く塗ればいいってことじゃなく,一旦建築的思想や設計方法を経由しマルジェラ的な建築に行きつけたらいいのに。青木淳や長坂常の建築が最高だ。

洋服の基盤となっているのは「様式」である。「スリーピース」「トレンチコート」「メリージェイン」など,全体から細部に到る隅々が様式によってかたちづくられる洋服に対して,それを白く塗ったり歪めたり,ビニールで作ったり,オーバーサイズにするなどする。ある一貫した手続きに従い変形を加えることで芸術としての洋服が生まれる。(その実現に必要とされる,過剰に高度な感性と裁縫技術は脇に追いておくとして,ここではそうシンプルに考える。)

他方,近代的なものには一般的に様式がない,ということになっているし,ここでもそう考えておく。「白く塗る」ことが魅力的になるのは下地に強烈な様式がある場合のみ。対して現代のほとんどの建築は近代建築だ。初めから白いものを白く塗ってもおもしろくない。それでも,そこになんらかの様式を見出し操作すればいいわけだから,リノベーションにはまだ可能性がある。(長坂常がこの市場を席巻している。)だが,新築となると,一から何らかの様式に則って設計し,それを操作するという自作自演を完遂することになる。多分これがとても言語化しにくいプロセスである。

モードの建築の設計方法

建築における一般的な認識に従い「様式 = 歴史」であると考えこれを実行する場合,かなりの無理ゲーであることがわかる。例えば,現代日本で「バロック様式の教会」的なものを作ってそれを変形して住宅にすることは理屈上可能。だが,建築様式は建設技術に寄るところが大きい。多くの建設会社や工務店が,現代建築のための技術に特化しているので,地となる「バロック様式の教会」からしてハリボテになると思われる。ここで先ほどから脇に追いやっている「高度な技術」が問題となる。マルジェラ性が「トレンチコートがトレンチコートであること」に由来していると考えれば「地」の部分は本物でなければならない。オーセンティックなトレンチコートをつくる技術がなければマルジェラはありえない。バロック様式の教会を建築する技術は基本的に日本にはない。よってこの設計は成立しない。

一方で,様式=歴史の認識をひとまず放棄し「何らかの手続き」程度に捉えこれを実行する場合,青木淳が「原っぱと遊園地」で説明する通りである。

根拠のないルール

曰く,至れり尽くせり遊園地も楽しいが,原っぱでどうやって遊ぶか探るのも楽しい。「原っぱ」をつくるための道具が「根拠のないルール」を「オーバードライブ」することであるとされる。根拠のないルールをオーバードライブし,これを従来の人間の生活様式を受容するように変形し操作することで「原っぱ」的な空間が生じる。機能主義的な建築に対し,モードの建築には「原っぱ」性があって魅力的だ。

「原っぱと遊園地」は,機能主義へのアンチテーゼとしてシンプルな論理展開をする。だが,モードという観点から考えた時,この「ルールの無根拠さ」が重要なテーマだ。「なぜそのルールを設定したのか」,これは設計における究極のブラックボックスであるが,それは設計者に一任されるのだという。「原っぱ」の理論は,機能を超える建築空間のロジックであると同時に,設計において「説明不可能な部分=根拠のないルール」(=モード)を設計者が受け持つことを肯定する理論であるとも解釈できる。設計者のブラックボックス的な部分こそが,おもしろい建築をうみだしているんですよ,ということだ。

これはモードというものの本質である。着物をきた女性の楚々とした振る舞いは魅力的だが,それを生み出す着物の設計(幾重にも重なって動きづらい布や,体をしばりあげる帯や,歩きにくい下駄,足の可動域の狭さなど)には合理的で明快な根拠が1つもない。もちろん美しさのためにそういう設計に定まったわけでもない。何かしら説明を付与できるかもしれないが,定かではないし,そうすることにもあまり意味がない。みる者にとって「着物をきた女性の振る舞いが美しい」それがすべてだ。

「マルタン・マルジェラみたいな建築を作る」には少なくとも「根拠のないルール」でつくる。(様式的な建築を作るのには様式が必要だ…と言うわけで今の所何も言っていないに等しい。) 根拠のないルールは,表参道のLuis Vuittonでいえば『トランク(直方体のボリューム)で構成する』みたいなことなのだが,根拠がない以上,設定に再現性もない。根拠のないルールでつくること自体「いい感性で設計しろよ」「そのいい感性を徹底しろよ」くらい何も言ってないのでは,と思えなくもない。

そもそも,多かれ少なかれ全ての設計者が何らかの根拠のないルールにしたがってデザインしているにも関わらず,青木淳のように魅力的な建築はそんなにない。それはどういうことか。

 

映像的空間

一見無機質でオートマチックな響きを帯びた「根拠のないルール」と言う言葉は,具体的にはどのようなものか。この言葉を掲げた青木自身が,設計時に用いる「根拠のないルール」について考えて見る。もっと言えば根拠のないルールによって現れる彼の建築空間はどのようなものか

根拠のないルールで設計されていて,かつかっこいい青木淳の建築は,ある種の「体験の喚起力」がとても強い。例えば,彼の作品には「道の上にすんでいると錯覚する家」「細い裏路地を抜けたら猫のひたいほどの大きさの中庭に出た,という感じの家」「巨大な建築の基礎部分にこっそり不法占拠している感じ」「みたいな感じがする」建築がある。表現に差こそあれ「みたいな感じがする」

様式という言葉からは「ものの成り立ち」の様式がまず頭に浮かぶ。京町家だったら,間口が狭く奥行きが深いプロポーションで,引き戸などのディテールや素材はこうで,中央部に中庭がある,といったものだ。だが,青木がまず着目するのは(多分)映像の成り立ちである。京町家の例で言えば「細い路地から扉を開けて奥に進むと,庭先の植物に照り返すほのかに緑の光が見えた」といった,都市空間を移動する人間における,映像的な空間の成り立ちが問題になり,そこに建築の構成が続く。

仮説的映像的体験が彼の「根拠のないルール」を基底しているのではないか。そうであるとして,興味深いのは,その映像的体験は,私たちの身体的な経験に根ざしたものもあれば,架空の経験も含まれていること。実際,道の一角をガラスで覆って暮らす「U」はある映画の空間イメージを建築に投影しているという。映画に詳しい人なら,青木淳のこの建築は,この映画っぽい空間,というところまで特定できるのかもしれない。

 

「無根拠なルール」が生み出す質が一体どのようなものであるか

多かれ少なかれ,全ての建築家が根拠のないルールにしたがって建築を作っている。それが芸術に消化されるためには自覚的であれ無自覚的であれ生み出される「質」が問題になる。モードの建築を作ることは,何らかの「質」を与え,それを捻ったり壊したり素材を変えたり洗練させたりすること。

ここでいう「質」は「様式」によって生まれる「感じ」であるが,これも結局のところ歴史≒コンテクストと関係している。シアトルの図書館に行けば,空港や駅を想起するわけだが,それは頭上を通り抜けていく巨大な構造体やガラスを見て,私たちが空港や駅のイメージと結びつけるからだ。

ものには経路依存性がある。もの自体が近代的なスチールやガラスであれ,寸法や素材をもった具体的なものには,それにまつわる体験の記憶がある。ものそのものをなにかの象徴として表現するのではなく,その周囲に広がる体験の記憶を編集するところがポストモダンの建築とは少し違っていると思われる。

体験の様式を収集し,根拠のないルールを徹底して設計をし,固有の「質」を獲得する。「質」を研ぎ澄ませる。モードの建築の方法論は,さしあたりこれ以上に説明しようがない。モードの建築は,建築の歴史上多分ずっとあったし,これからも理論として,表沙汰になることはあまりないだろう。モードのある建築はすてきなだけで,客観的に万人に価値を説明しようもないし,つくることに合理性もない。青木淳の原っぱは,様式という文化を制作する人間の営みそのものを指し示している。

180710 | 3625 words

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